落書きについて

若者の街にでかけると、スプレーで建物の外壁に落書きをしてあるのを見かける。


しばらく前に、大阪のアメリカ村(アメ村)の落書きを一掃するドキュメンタリーを見た。
アメ村は言わずと知れた若者の街の代表格であり、落書きの量も半端ではない。
「落書きは汚い」→「一掃して美しい街へ」


正論ではあるが、疑問を持った。
落書きを消すことは、かなり個性のある街「アメ村」を、普通の街にしてしまいはしないだろうか。
「アメ村」のような街は、大都市にしか存在し得ない。
若者の人数が一定数以上いないと、あのような街は成立しない。
「アメ村」は、日本中でそれほど多くない、貴重な(珍重されるべき)街のひとつである。


先日、高架下に集中的に描かれている落書きを見て気付いた。
日本語で描かれた落書きが無い。
英語で「FREEDOM」と描かれても、描いたのが日本人であるならば、その人が自由について本当に考えているとは思えない。通行人に「自由」についてのメッセージを送ろうとしているとは到底考えられない。

アメリカ人がアメリカで、英語で落書きをすれば、それはダイレクトに通行人に伝わるだろうし、それは結構ショックの大きいことであると思う。
それは、日本の落書きの全てが日本語で描かれているところを想像すればすぐにわかる。
「愛と平和」だとか、「殺してやる!」だとかが、それにふさわしいデザインを施されながら描かれていれば、それは一見に値するかもしれない。
退屈な路地裏にそういった情報があふれかえるのを、面白いと考えることもできそうだ。

日本人が日本で落書きをするのであれば、それらは、それ相応の表現に収斂されなければならない。
アメ村の落書きが一般の人に、「ただの汚れ」としかみなされなかったのも無理は無い。
落書きを描く側の、「見る人に何かを伝える」という意識が希薄で、表現としてあまりにも薄っぺらかったのだ。

「伝える気が無い落書きなら、受け取らなくて良い」→「一掃」
この図式は正しいと思う。

前へトップページ次へ | TT | 2008/6/ 7